神田外語大学(千葉市美浜区/学長:宮内孝久)附属図書館は、精巧な複製による神田佐野文庫常設展示を3号館1階の常設展示エリアにて開催しています。第1回「諳厄利亜(あんげりあ)語、エゲレス語、エンケレセ―『英語』になるまで―」(2023年4月~7月)に続いて、第2回(2023年9月20日~2024年7月31日)は、今から240年前にロシアに漂流した伊勢漂民・大黒屋光太夫(だいこくや・こうだゆう)が帰国後に揮毫したロシア文字「福寿」を中心に、明治初期までの日本とロシア、アイヌとの交流史、園芸と和歌の文化史を読み解きます。本展示では、本学日本研究所の客員教授であり、京都大学名誉教授の松田清による企画監修のもと「福寿」のほか神田佐野文庫所蔵貴重資料、計6点の複製を展示しています。参加費および申し込みは不要です。
神田佐野文庫について
神田佐野文庫は江戸時代後期から明治維新を経て、連合国占領期まで(1780年代から1950年代)の約170年間に、日本で刊行あるいは書写された西欧語・西欧文化の教育研究資料、および同時期に西欧世界で出版された日本関係洋書を幅広く収集した特色ある神田外語大学の文化交流史資料コレクションです。今回、この神田佐野文庫より2016年に発見された「福寿」および関連資料を展示しています。
「大黒屋光太夫」について
三重県伊勢市の港町白子(しろこ)の船頭だった大黒屋光太夫(1751~1828)は1783年1月15日に遭難し、ロシア に漂流。そのまま10年近い滞在を余儀なくされましたが、ロシアの女帝エカテリーナ2世の許可を得て、1792年10月9 日、使節アダムス・ラクスマンに送られて、10年ぶりに根室に帰国しました。
1793年9月21日、光太夫と部下の磯吉は江戸に到着、10月22日、江戸城内で将軍家斉の上覧にあずかりました。将軍侍医・蘭学者の桂川甫周は、光太夫からロシア事情を聴取し、オランダ語の世界地理書のロシア編を参照して、日本最初の本格的なロシア研究書である『北槎聞略(ほくさぶんりゃく)』(1794)を著しました。本書は光太夫の漂流体験やロシア帝国の地理・制度・風俗・言語などを詳細に記載し、多くの付図を備えた大著でしたが、幕府の秘庫に収められ、一般には流布しませんでした。
一方、光太夫のロシア体験談とロシア文字は支配層や知識人だけでなく、庶民の強い関心を引きました。持ち帰ったロシアの文物、衣服、生活用具は庶民の好奇の的となり、各地で流行していた見世物に出品されました。特に、ロシア文字は珍しがられ、光太夫は方々から揮毫を求められました。
ロシア文字「福寿」について
光太夫自筆のロシア文字「福寿」は神田佐野文庫の調査にあたっていた松田清日本研究所客員教授が2016年10月10日に発見しました。縦31 ㎝、横47 ㎝の和紙に墨と筆で、ロシア文字が二行書きされており、読み方は「フクジュ、イセ、ダイコー」(福寿、伊勢、大光)。「大光」は大黒屋光太夫(以降、光太夫)の略でペンネームとして使われていました。
光太夫自筆のロシア文字は所在不明となったものも含めて、現在までに40点ほどが知られており、光太夫の出身地、 三重県鈴鹿市の大黒屋光太夫記念館には、そのうち20点が収集されています。発見されたロシア文字は「イロハ文字」(13 例)や「ツル」(6例)と書かれたものが多く、それに次いで多いのが「福寿」(5例)となります。「福寿」はこれまで4点知られており、今回展示するものは5例目となります。
「大黒屋光太夫のロシア文字『福寿』」 概要
主 催:神田外語大学附属図書館
期 間:2023年9月20日(水)~2024年7月31日(水) ※開館時間は平日10:00~16:00となります
場 所:神田外語大学3号館1階展示エリア(千葉県千葉市美浜区若葉1丁目4-1)
監 修:松田 清(神田外語大学 日本研究所客員教授、京都大学名誉教授)
展示資料(複製):
・羽太正養(はぶと・まさやす)著『蝦夷地歌仙』1801年作 1817年写
・大黒屋光太夫のロシア文字「福寿」1810年代
・香川景枝・富士谷御杖画賛抜粋『福寿草画賛』 嘉永年間写
・イワン・マホフ『ろしやのいろは』箱館 1861年刊
・ゴシケーヴィチ編・橘耕斎協力『和魯通言比考』サンクトペテルブルク 1857年刊
日本研究所主催の神田佐野文庫常設展示は2023年4月~7月に第1回「諳厄利亜(あんげりあ)語・エゲレス語、エンケレセ―『英語』になるまで―」を開催しました。今回は第2回目となります。
※観覧希望の場合は、本学1号館2階総務部にて入構手続きをお取りください。なお、駐車スペースはございませんので公共の交通機関をご利用ください。
なぜ、光太夫のロシア文字「福寿」 ―企画に至るまで― 日本研究所客員教授 松田 清
今から15年前、2008年11月17日のこと。京都の古物市で「紅毛人画幅」と題された掛け軸に出会いました。異人の服装をした二人の男の肖像画です。「紅毛人」(オランダ人)ではなく、大黒屋光太夫と磯吉とすぐに分かりました。調べてみると、1793年10月22日、江戸城内で二人が将軍家斉の上覧にあずかった時の姿を描いたものでした。この貴重な絵画「大黒屋光太夫・磯吉画幅」はその後まもなく、鈴鹿市が購入し、光太夫の生まれ故郷、鈴鹿市若松町にある大黒屋光太夫記念館の宝物になりました。
2011年12月、京都の本草漢学塾山本読書室旧跡の土蔵を調査中に、「七五三福寿草写生」という盆栽の福寿草奇品15種を描いた美麗な彩色図集が出てきました。嘉永元年(1848)頃、江戸園芸の中心地、巣鴨の植木屋仲間が作成したものでした。その序文の冒頭に、福寿草流行は文化年中(1804-1818)に始まり、最近とくに奇品が数多く作られ流行しているのでそれを図集にまとめた、と書かれていました。
2016年10月10日、本学附属図書館所蔵若林正治コレクション(のち神田佐野文庫の中核になります)を整理中に、今回の展示テーマに選んだ「大黒屋光太夫筆ロシア文字福寿」を発見しました。その時、このロシア文字「福寿」が、文化年間に始まったという園芸界の福寿草ブームの中で書かれたことに、感銘を受けました。「福寿」は長寿を意味する漢語ですが、光太夫は10年におよぶ長い漂流生活に耐え、厳しい冬を乗り越え、生きながらえて無事帰国できたのです。
福寿草はシベリア原産で蝦夷地(のちの北海道)にも育つ、春を呼ぶ目出度い花です。福寿草は元日草とも呼ばれ、正月元日に飾ることは古くから行われていましたが、その盆栽ブームは享和年間(1801-1804)に、盆栽の福寿草奇品15種が将軍家斉に献上されたのが契機のようです。嘉永初年に巣鴨の植木屋仲間で起きた福寿草ブームでは、鶴亀松竹梅、七福神などを図柄にした染付鉢に福寿草の奇品が植えられ、それを描いた彩色図には和歌や俳句の画賛が書き込まれました。
18世紀末頃から、京都では、花鳥風月を重んじる伝統的な宮廷の堂上(とうしょう)歌壇に対抗して、地下(じげ)の歌人たちが真情発露を旨とする和歌の革新運動を起こしました。同時に書画会が盛んとなり、画家の描いた動植物図や人物図などに和歌の画賛を入れた掛け軸がよく売れるようになりました。文化年間から始まった福寿草流行が和歌画賛の流行と結びつくのは自然の流れでした。
2022年12月、本学日本研究所では、「福寿草画賛」と題する写本1巻を古書店から購入し、神田佐野文庫に収蔵することができました。香川景枝(かがわ・かげえ、1824年生、没年不明)と富士谷御杖(ふじたに・みつえ、1767-1823)の和歌画賛、計12首を嘉永年間に抜き書きした写本でした。香川景枝は堂上歌壇に対抗して和歌革新を唱えた歌人香川景樹(かがわ・かげき、1768-1843)の子です。富士谷御杖は国学者・歌人で、香川景樹と親交がありました。
2022日12月29日、「(前日)帝政ロシアのエカテリーナ2世像、ウクライナ南部オデーサで撤去」との新聞記事に接しました。撤去されたのは1900年に「オデッサ」(ロシア語)中心部に立てられた記念像です。大黒屋光太夫に日本帰国を許可したエカテリーナ2世は、極東日本との通商交渉を使節アダムス・ラクスマンに託していましたが、ウクライナ、クリミヤへの版図拡大をはかり、1794年に港湾都市「オデッサ」建設を命じました。
ロシアの東方新出・南下政策を背景にして帰国した大黒屋光太夫が書き残したロシア文字「福寿」を手がかりに、18世紀末から明治初期に至る日本とロシア、アイヌとの交流史、園芸と和歌の文化史を読み解いてみようと、本展示を企画した次第です。
神田外語大学日本研究所
神田外語大学では、「日本文化に関する国際的および学際的な総合研究ならびに世界の日本研究者との研究協力」を目的とする「日本研究所」を設置しています。同研究所は、この目的を達成するため、洋学資料を継続的に収集しており、今後も貴重書籍研究および成果の社会的発信に役立てています。
神田外語大学日本研究所客員教授 松田 清
1947年愛知県生まれ。京都大学名誉教授。研究分野は、日本洋学史、日欧知識交流史、書誌学、近世京都学。主な著書に『洋学の書誌的研究』(臨川書店、1998年)、『訓読豊後国志』(共編、思文閣出版、2018年)、『京の学塾(まなびや)山本読書室の世界』(京都新聞出版センター、2019年)などがある。
参考リンク
神田外語大学
https://www.kandagaigo.ac.jp/kuis/
神田外語大学 日本研究所
https://www.kandagaigo.ac.jp/kuis/main/labo/rijs/
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