科学警察研究所法科学第三部 広瀬隆平研究員(現所属:神奈川県警察横須賀警察署、横浜市立大学国際総合科学部卒業生)、宮口 一 部付主任研究官、横浜市立大学大学院生命ナノシステム科学研究科 関本奏子研究教授らの研究グループは、化学テロ発生現場に残留するVX
*1やノビチョク
*2などの微量の神経剤を検知するための新たな手法を開発しました。
近年海外において暗殺に使用されたVXやノビチョクは、物体に付着した場合は長期間揮発せずに留まるため、速やかに汚染部位を特定して神経剤を積極的に除去(除染)する必要があります。ところが、汚染部位の特定には多大な時間と労力を必要とし、実際にイギリスで発生したノビチョク事件の現場除染には約一年を要しました。そのため、神経剤による汚染を検知するための簡便で迅速な手法が求められていました。
今回、本研究グループは、市販の質量分析装置に簡単な改造を施すことで、現場から採取したふき取りサンプルから微量の神経剤を迅速かつ確実に検知するための新たな分析手法を構築しました。本手法は、安全な市民生活を取り戻すための除染活動の効率化を通じて、化学テロによる被害の抑止につながる国際的な貢献が期待されます。
なお本研究成果は、「Analytical Chemistry」誌にオンライン公開されました(2026年6月11日21時)。
研究成果のポイント
- 化学テロ発生現場のふき取り試料から、VXやノビチョクなどの猛毒の神経剤を迅速に検知
- 汚染範囲の迅速な特定を通じて、安全な市民生活を取り戻すための除染活動の効率化に貢献
図1 イメージ
研究背景
神経剤は化学兵器として用いられる毒物(化学兵器用剤)の中でも最も毒性が高く、神経剤による化学テロは社会に大きな脅威を与えます。神経剤のうち、地下鉄サリン事件や松本サリン事件で使用されたサリンは揮発性が高く、蒸気となって広範囲に拡散するために同時に多数の被害者が生じますが、テロ発生後は屋外であれば比較的すみやかに揮発して現場から消失します。一方、海外において暗殺に使用されたVXやノビチョクは揮発性がきわめて低く、物体に付着した場合にはそのまま長期間残留するうえに、手指や靴底などを通じて微量の神経剤が広範囲に拡散する可能性があります。神経剤は皮膚に付着すれば微量でも健康被害が発生する恐れがあるため、汚染が推定される地区への立入規制を広範囲にわたり行う必要がありますが、その解除にあたっては神経剤で汚染した部位を特定して積極的に除去ないし分解(除染)する必要があります。ところが、汚染部位の特定には多大な時間と労力を必要とするため、イギリスで発生したノビチョク事件の現場除染には約一年を要しました。そこで、神経剤による汚染を検知するための簡便で迅速な手法が求められていました。
我々の研究グループは、横浜市立大学がこれまでに培ってきた大気圧コロナ放電イオン化法
*3の技術を応用し、現場から採取したふき取りサンプルから微量の神経剤を迅速かつ正確に検出することが可能となる新たな手法を開発しました。
研究内容
最初に、市販の化学分析装置であるナノ液体クロマトグラフ-質量分析計(nanoLC-MS)に簡単な改造を施し、昆虫標本作製用として販売されている細い針の先端から安定したコロナ放電を生成させることができる装置を安価に構築しました。さらにチャンバーと活性炭フィルターを装置に取り付け、外部への有毒物質の漏洩が起こらないようにするための装置を構築しました(図2)。
図2 装置外観
神経剤(VX、RVX*4および5種類のノビチョク)をアラミド繊維片に載せて測定し、装置の検出性能を確認しました。また、ドアノブや手すりを模したステンレス表面およびプラスチック製スイッチプレートに神経剤を付着させたのち、これをスワブ(綿棒のようなもの、写真参照)でふき取って測定し、その場合の検出性能も確認しました。さらに、ふき取ったスワブを一定期間保存した後の検出の可否も確認しました。
コロナ放電によって生成するヒドロニウムイオン(H3O+)から神経剤に効果的にプロトン(H+)が移動することで、神経剤を高感度に検出できることが分かりました。VX、RVXおよび5種類のノビチョクの検出下限は、スクリーニングに用いられるフルスキャンモードでは50~250 pgであり、分子構造を反映した特徴的なマススペクトル(図3)が得られるプロダクトイオンスキャンモードでは25~50 ngでした。
図3 測定した神経剤のマススペクトル
また、ステンレス表面およびプラスチック製スイッチプレートに付着させてスワブでふき取った場合の検出下限(フルスキャンモード)は、VXでいずれも100 ng、ノビチョクA-230およびA-242でいずれも10 ngでした。これら神経剤の経皮吸収による致死量は10 mg前後と推定されており、致死量の10万分の1~100万分の1を検知できることから、テロ発生現場の汚染状況の把握のための十分な検出感度を有しているとみなすことができます。
また、1 μgの神経剤をステンレス表面からふき取ったあと、VXとA-230は7日後、A-242は3日後まで検出が可能であり、輸送などのために測定までに時間を要する場合においても適用可能であることを確認しました。
今後の展開
今回は神経剤を測定対象としましたが、他の物質についても同様に検知可能な場合が多いと考えられます。マスタードガスや催涙剤など他の化学兵器用剤、覚醒剤・麻薬などの薬物、爆発物など、警察が捜査対象とするさまざまな物質の検知に適用することで、化学テロ対策や科学捜査へのさらなる応用が期待されます。
研究費
本研究は、JSPS科研費(主に24K02552)の支援を受けて実施されました。
論文情報
タイトル:Direct mass spectrometric detection of VX, RVX, and Novichok A-series nerve agents for screening contaminated sites using atmospheric pressure corona discharge ionization(大気圧コロナ放電イオン化法を用いた汚染地域のスクリーニングにおけるVX、RVX、およびノビチョクAシリーズ神経剤の直接質量分析)
著者:広瀬隆平
1、山口晃巨
1、大森毅
1、数井優子
1、大塚麻衣
1・2、宮口 一
1、関本奏子
3(1 科学警察研究所、2 千葉県警察本部刑事部科学捜査研究所、3 横浜市立大学大学院生命ナノシステム科学研究科)
掲載雑誌:Analytical Chemistry
DOI:
https://doi.org/10.1021/acs.analchem.6c00451
用語説明
*1 VX:1950年代にイギリスで開発された神経剤であり、1994~1995年にオウム真理教が個人をターゲットとした殺人および殺人未遂事件に用いたほか、2017年にマレーシアで発生した暗殺事件でも使用された。
*2 ノビチョク:戦後に旧ソ連およびロシアで開発された神経剤の総称であり、多くの種類がある。2018年にイギリスで発生した一連の事件や、2020年にロシアの反体制活動家が意識不明の重体となった事件への関与が指摘されている。
*3 大気圧コロナ放電イオン化法:大気圧下で針電極に高電圧を印加し、コロナ放電を起こして試料をイオン化する技術。具体的には、コロナ放電によってまず大気成分がイオン化される。ここで生じた大気イオンが試料と反応することで、試料がプロトン化、脱プロトン化、または大気イオンの付加体としてイオン化される。
*4 RVX:Russian VXまたはVRとも呼ばれ、旧ソ連において開発されたVXの類縁化合物である。